日本のビジネスパーソンや法曹界において、「日本の首都はどこか」と問われれば、誰もが疑いなく「東京」と答えるだろう。日々、霞が関の官庁街を歩き、丸の内の高層ビル群を見上げ、永田町の動向に目を光らせている我々にとって、東京がこの国の中心であることは「自明の理」である。
しかし、法的な観点からこの事象を厳密に紐解いていくと、意外な「空白」に突き当たる。実は、現行の日本法において「東京を日本の首都と定める」と直接明記した基本法は、どこにも存在しないのである。
1. 法の空白と「首都圏」という外延
我が国の法体系において「首都」そのものを直接定義する条文はない。国会法をめくっても、「国会を東京都に置く」という規定すら存在しないのだ。
行政が拠って立つのは、あくまで「首都圏整備法」(第2条第1項)などの個別法である。そこには「東京都の区域及び政令で定めるその周辺の地域を一体とした広域」を「首都圏」と定義する、という外延的なアプローチしか取られていない。つまり、中心点(首都)を法で縛るのではなく、その周辺地域を含めた面(首都圏)として実務的に処理しているのが現状なのだ。
過去を遡れば、昭和25年に制定された「首都建設法」には「日本の首都としての東京都」という明文があった。しかし、同法は昭和31年に廃止され、現在の首都圏整備法へと移行した。この過程で、「首都」という直接的な表現は法組織の表舞台から姿を消したのである。
2. 歴史の妥協が生んだ「なし崩しの東京」
なぜ、これほど重要な国家の定義が曖昧なまま放置されているのか。そのヒントは、明治維新期の政治的混迷にある。
1868年(明治元年)、新政府は江戸を「東京」と改称し、明治天皇の行幸(東幸)をもって事実上の遷都を断行した。太政官をはじめとする主要な政府機関も次々と移転し、実質的な首都機能は東京へと一極集中していく。
しかし、ここで新政府が直面したのは、長年「都」であり続けた京都の市民や公家、知識層からの凄まじい反発だった。 当時の政治的混乱を避けるため、政府はあえて「東京を首都とする」という公式な遷都の詔書(宣言)を出さず、法律による明文化も避けた。つまり、京都への心理的・政治的配慮から生まれた「なし崩し的な既成事実化」こそが、現在の「法定なき首都・東京」のルーツなのである。
3. 「確信」という名の最高規範
法化社会が進む現代において、すべてが条文で規定されている必要はない。
昭和54年の参議院内閣委員会において、当時の内閣法制局長官は「東京が日本の首都であるというそういう確信は、これは日本国民だれもが疑いなくそう信じていることであろうと存じます」と答弁している。
法実証主義的に見れば頼りなく映るかもしれないが、国民全員の「確信(慣習法的な合意)」と、三権の最高機関(国会・首相官邸・最高裁判所)が集中しているという圧倒的な事実が、法秩序の欠落を完全に補填している。
中央集権的な法制度の中に、あえて残された「歴史的配慮のグラデーション」。東京という街は、法律によって作られた都ではなく、歴史の妥協と国民の確信によって維持されている、極めて「有機的な首都」なのである。

