日本ではいつまで斬首刑があった?—そもそも「獄門」とは?—

コラム

「日本で最後に首切りが行われたのはいつか?」という問いは、私たちがイメージする「武士の時代(江戸時代)」の終わりと、現代の「法治国家」への過渡期を知る上で、非常に興味深いテーマである。

結論から言うと、日本で最後に刀による斬首刑が執行されたのは明治12年(1879年)1月31日。そして、それ以上に凄惨な見せしめ刑であった「獄門(ごくもん)」が廃止されたのは、そのわずか1ヶ月前のことであった。

今回は、江戸から明治にかけての「首切り」の歴史の終焉と、時代の激流に呑まれた人々の悲劇をひも解く。

そもそも「獄門(ごくもん)」とは?

江戸時代の死刑(庶民を対象としたもの)にはいくつかの段階があり、単に首をはねるだけの「下手人(げしにん)」や「死罪(しざい)」よりも重い罪に対して科されたのが「獄門」である。

一言で言えば、「斬首(打ち首)にした後、その首を公開空地(獄門台)に3日間(2泊3日)晒して見せしめにする刑」、いわゆる「晒し首(さらしくび)」のことだ。

江戸時代、主殺し(奉公人が主人を殺すこと)や親殺し、連続強盗殺人などの凶悪犯罪を犯した者がこの刑に処された。

明治維新を迎えた後も、新政府はすぐにこの刑を廃止したわけではなく、明治3年(1870年)に制定された新政府の刑法『新律綱領(しんりつこうりょう)』において、名前を「梟首(きょうしゅ)」と改めて引き継いだ。

近代司法の父・江藤新平を襲った「梟首」の悲劇

この明治初期の「梟首(獄門)」を語る上で、避けて通れない歴史的事件がある。初代司法卿(現在の法務大臣に相当)として日本の近代司法制度の基礎を築いた、佐賀の乱の指導者・江藤新平の処刑である。

江藤は明治7年(1874年)、不平士族を率いて「佐賀の乱」を起こすが敗北。その後捕らえられ、急設された佐賀裁判所において、明治政府創設メンバーの同僚であった大久保利通の主導のもと、即座に「梟首刑」を言い渡された。

自らが法律の整備を進め、残酷な刑罰の廃止を訴えていた立場でありながら、皮肉にも自らがその凄惨な刑の対象となってしまったのである。

江藤の首は千人塚の刑場に晒され、さらにその生々しい生首の写真が撮影されて「梟首写真」として市中に販売されるという、近代国家としてはあまりにも異様な事態まで起きた。この一件は、新政府が反乱分子を見せしめによって徹底的に威嚇しようとした、過渡期ゆえの暗部を色濃く残している。

廃止の背景:欧米列強への「見栄」

明治政府が江藤新平らに科した梟首刑や、伝統的な斬首刑を廃止した最大の理由は、「欧米列強への見栄(文明国として認められるため)」である。

当時、日本は欧米と結ばされていた不平等条約を改正したくてたまらない時期であった。しかし、欧米諸国からは「日本はまだ刀で首をはね、それを写真に撮って街頭に晒すような野蛮な国だから、裁判権を任せられない(領事裁判権の維持)」と見下されていたのである。

そのため、明治政府は国際基準に合わせた法制度の近代化を急ピッチで進めることとなった。

年表で見る「首切り」終焉の歴史

日本の歴史から「首を切る・晒す」という行為がなくなるまでのタイムラインは以下の通りである。わずか数年の間に一気に近代化が進んだことがわかる。

年月出来事内容
明治7年(1874年)4月江藤新平の梟首執行佐賀の乱に敗れた元司法卿・江藤新平が梟首(獄門)に処され、首の写真が市中に出回る。
明治11年(1878年)12月最後の梟首(獄門)執行強盗殺人犯・関口一郎の首が晒され、これが日本最後の「晒し首」となる。
明治12年(1879年)1月4日梟首(晒し首)の完全廃止太政官布告により「首を晒す」行為が禁止され、死刑は「斬首」のみとなる。
明治12年(1879年)1月31日最後の斬首刑執行高橋お伝(たかはし おでん)の死刑執行。これが日本国内で刀で首をはねた最後の事例。
明治13年(1880年)1月「旧刑法」の公布フランスの法律を参考に作られた新刑法が公布され、死刑は「絞首刑(首吊り)」に一本化。斬首が完全廃止。

時代の変わり目に起きた悲劇

日本最後の斬首刑囚となった女性・高橋お伝が刑に処されたのは、梟首(晒し首)が廃止されたわずか27日後のことであった。

執行時のエピソード

彼女の処刑には、江戸時代から続く高名な処刑人「山田浅右衛門(やまだ あさえもん)」の八代目が立ち会った。お伝が執行の際に愛する男の名前を叫んで大暴れしたため、処刑人が刀を2度も手元に狂わせ、3度目でようやく首が落ちたという凄惨な記録が残っている。

もし彼女の裁判や執行がもう1年遅く、明治13年の「旧刑法」が施行された後であれば、彼女は首をはねられることなく、現代と同じ「絞首刑」になっていたことになる。江藤新平の悲劇も含め、まさに中世から近代へと刑罰の歴史がガラリと変わる激動の境界線に、彼らの最期があったと言える。

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