AI・自動化・ロボティクスによって国家資格の価値がなくなると積極的に謳う人ほど、国家資格者ではないことが多い

コラム

「AIが仕事を奪う。」
「士業は10年後には不要になる。」
「国家資格はもう時代遅れである。」

AIブームのたびに、このような言説を耳にする。

しかし、不思議なことがある。

こうした主張を積極的に発信している人を見てみると、当人が国家資格を保有していないケースが少なくない。

もちろん、資格の有無だけで人の能力が決まるわけではない。資格がなくても優秀な経営者や技術者、研究者は数多く存在する。

一方で、「国家資格に価値がない」と断言することと、「資格がなくても活躍できる」ということは、まったく別の話である。

私見では、「国家資格は価値がない」と語るのであれば、自ら難関国家資格に合格したうえで、あえて登録しないという立場から論じたほうが、はるかに説得力がある。資格を取得し、その制度を実際に経験した立場からの不要論と、制度の外側から語る不要論とでは、説得力に差が生まれるからである。

もちろん、資格の有無だけで人の能力が決まるわけではなく、資格を持たない優秀な人も数多く存在する。しかし、資格制度そのものの価値を論じるのであれば、その制度を実際に経験した者の見解のほうが、読者により重みをもって受け止められるのではないだろうか。

AIは膨大な知識を処理できる。

自動化は定型業務を高速化できる。

ロボティクスは人間の身体能力を補完できる。

しかし、国家資格制度が担っている本質は、「知識量」だけではない。

それは、

・一定水準以上の能力を公的に証明すること
・倫理規範を負うこと
・法的責任を伴って業務を遂行すること
・社会的信用を制度として担保すること

にある。

AIは資格試験の問題を解くことができるかもしれない。

しかし、AIは行政処分を受けない。

AIは懲戒責任を負わない。

AIは職業倫理違反で資格停止になることもない。

つまり、社会が求めているのは、単なる知識ではなく、「責任を負う主体」である。

だからこそ、AI時代に価値が下がるのは資格そのものではない。

価値が問われるのは、「資格だけに依存する人」である。

そして、AI時代に価値が高まるのは、AIを使いこなしながら、最終責任を引き受けられる専門家である。

資格はゴールではない。

信用のスタートラインである。

AI時代だからこそ、その信用をどう活かすかが問われている。

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Emerald View

国家資格は「知識の証明書」ではない。

社会から責任を託されるためのライセンスである。

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