昭和40年代に公開された、ある任侠映画。その冒頭数分間は、僕にとって鮮烈なプロローグだった。
舞台は、まだ「東京府東京市」と呼ばれていた戦前。ある裏社会の組織の決定的な証拠を掴んだ警視庁の刑事が、口封じのため刺客に命を狙われる。
伏見稲荷を思わせる、朱塗りの千本鳥居が果てしなく続く異空間。中年刑事は、着物姿の幼い娘とともに静かに歩いていた。
娘の手から手毬が転がり落ち、無邪気にそれを追いかける。父と娘が離れたのは、ほんの一瞬だった。 その静寂を切り裂くように、着流し姿の三人組が現れる。
刑事の腹へ、ためらいなく突き立てられるドス。
不意を突かれた男は苦悶に顔を歪め、白目を剥きながら絶叫する。
「わしを本庁の刑事と知ってのことか!」
刺客たちは刑事の鞄から証拠書類を奪い去り、闇へと消える。 その場に残されたのは、無念のまま息絶えた刑事の骸だけだった。
やがて、この光景を目の当たりにした幼い娘は成長し、父の無念を背負った一匹狼のアウトローとして、壮絶な復讐の道を歩み始める。
だが、僕の心を最も揺さぶるのは、その後に続く壮絶な復讐劇ではない。
この冒頭の襲撃シーンそのものなのである。 そこには、二つの衝撃が凝縮されている。
一つは、事件解決まであと一歩というところで命を絶たれた、一人の刑事の絶望。
そしてもう一つは、「国家権力への畏れ」が、いとも簡単に踏みにじられたという衝撃である。
もちろん、現実の歴史はもっと複雑だ。
しかし、少なくとも当時の任侠映画や時代劇が描いてきた世界には、「お上には真っ向から楯突かない」という一種のお決まりが存在していた。
ところが、この映画はその前提を容赦なく叩き壊す。 しかも、それを白昼堂々、刃と鮮血によって描き切るのである。
だからこそ、 「わしを本庁の刑事と知ってのことか!」 という一言は、単なる威嚇ではない。それは、「お前たち、お上に逆らうのか!獄門台に送られるぞ!」とでも言うべき、戦前の刑事が持っていた奉行所同心さながらの、絶対的権威を背負った絶叫である。 国家という権威を疑うことなく職務を全うしてきた一人の刑事が、その拠って立つ秩序そのものを否定された瞬間の、純粋な驚愕と憤怒の叫びなのだ。
演出もまた強烈であった。 神域を思わせる千本鳥居の「朱」。 少女の無垢を象徴する「手毬」。 そして国家の威信を切り裂く「鮮血の赤」。 「赤」という色彩だけで、神聖さ、純真さ、暴力性という相反する感情を一つの画面に共存させる。
その映像美は、名バイプレイヤーの鬼気迫る演技と相まって、凄惨でありながらどこか幻想的な、唯一無二のアヴァンギャルドな世界を生み出している。
令和の今、「わしを本庁の刑事と知ってのことか!」と叫ぶ刑事は、おそらくフィクションの中でもほとんど見かけない。
現代の警察ドラマは、コンプライアンスやリアリティ、緻密な捜査手法を重視するようになった。それは時代の要請であり、多くの優れた作品を生み出してきたことも事実である。
しかしその一方で、「国家の威信」と「刑事としての矜持」を、ここまで泥臭く、真正面から叫ぶ人物像は、ほとんど姿を消してしまった。
だからこそ、この昭和映画が残した一言は、半世紀以上を経た今なお強烈な輝きを放ち続けている。 あの絶叫は、単なる時代錯誤のセリフではない。 一人の刑事が最後まで信じ抜いた「秩序」と、その秩序が無残に崩れ去る瞬間を刻み込んだ、昭和映画ならではの熱量そのものなのだ。

