28年前、僕は将棋教室を開設した。
そのことを知ったある人から、こんなことを言われた。
「『芸は身を助ける』とはよく言ったもので、まさにそれそのものやね」
もちろん、その人にはまったく悪気はなかった。
むしろ、将棋という自分の得意分野を仕事にしたことを、好意的に評価してくれたのだと思う。
ところが、その言葉を聞いたとき、僕はなぜか少し釈然としないものを感じた。
「いや、僕は何も困っていないんだけど……」
そんな感覚だった。
「芸は身を助ける」という言葉は、身につけた芸や技術が、思いがけないところで生活の助けになる、という意味で使われる。
特に、困ったときや生活に窮したときに、それまで培ってきた技術が生計を支えてくれる、というニュアンスを含むことがある。
だから、その言葉自体は決して悪いものではない。
ただ、僕の場合は、生活に困って将棋教室を始めたわけではなかった。
自分が身につけてきた将棋を、人に教えるという形に変え、自分の意思で一つの仕事として始めたのである。
だから、「芸に身を助けてもらった」と言われることに、ほんの少しだけ違和感を覚えたのだと思う。
今振り返ると、これは言葉そのものの問題というより、その言葉が含んでいる「前提」の問題だったのだろう。
同じ内容でも、
「得意なことを仕事にしたんだね」
「身につけたものを、自分の仕事に生かしたんだね」
と言われていたら、受け止め方はおそらく違っていた。
言葉というものは難しい。
こちらに悪意がなくても、その言葉が持っている背景や前提まで、相手には伝わってしまうことがある。
一方で、相手が何気なく使った言葉を、必要以上に悪く受け取ることも避けたい。
28年前のその人も、僕を揶揄したわけでも、生活に困っていると思ったわけでもない。
純粋に、
「将棋という技術を持っていて、それを仕事にできるのはいいことだ」
という意味で言ったのだと思う。
その意図は、当時から十分に分かっていた。
それでも、小さな違和感だけは残った。
だからこそ、28年経った今でも覚えているのかもしれない。
そして今、僕は将棋だけではなく、事業承継や後継者育成といった分野に窓口を開いた。
これから先は、さらに専門性を高めた上で、行政書士登録をして、さらさる業務にもつなげていくつもりでいる。
そう考えると、僕にとって仕事とは、単に「持っている芸に助けてもらう」ことではない。
自分が身につけた知識や経験を、誰かの役に立つ形へ変え、それを仕事として組み立てていくことなのだと思う。
将棋も、事業承継も、これから取り組む法律実務も、その意味では同じ延長線上にある。
芸が身を助けるのではなく、身につけたものをどう仕事に育てるか。
僕にとっては、こちらの表現の方がしっくりくる。
「芸は身を助ける」。
いい言葉ではある。
しかし、人に向かって使うときには、その人がどんな思いでその仕事を選び、どんな道を歩いてきたのかによって、響き方が変わる。
28年前の何気ない一言から、言葉の使い方は本当に難しいものだと、今でも時々考える。
