「現役」という言葉には、人を狂わせる甘美な響きがある。
「まだ必要とされている」「自分は社会の、あるいはコミュニティの第一線にいる」。そう信じられることは、確かに人を前進させるエンジンになる。しかし同時に、それは「第一線から外される恐怖」という名の、底なしの孤独を抱え込むことでもあるのだ。
イギリスの作家サマセット・モームの傑作「剃刀の刃」には、この「第一線」の病に冒され、命を縮めた男が登場する。ヒロインの叔父、エリオット・テンプルトンである。
一枚の「招待状」に命を握られた男
エリオットは、美術品の目利きとして大成功を収め、ヨーロッパのきらびやかな一流社交界に上り詰めた男であった。極上の仕立ての服を着、貴族たちと肩を並べ、華やかなサロンの中心にいること。それが彼の人生のすべてであり、唯一無二のアイデンティティであった。
しかし、老いと病は残酷である。 流行が移り変わり、エリオットが死の床に伏せる頃には、社交界の人々は彼を忘れ去りつつあった。
そんな彼の最期を襲ったのは、死への恐怖ではない。 「今シーズン最大の舞踏会の招待状が、なぜ自分に届かないのか」という、執念と狂気であった。
かつて自分が引き立ててやった、今は社交界の女王となった女性からの招待状。全盛期ならリストの最上段に書かれていたはずのその一枚が届かない。その事実だけで、エリオットのプライドはズタズタになり、彼は病床で狂わんばかりにのたうち回る。
見かねた語り手の「私」(モーム)は、件の女主人の邸宅を訪ねる。そこで応対した女主人の秘書に、エリオットが今まさに死の淵にあり、招待状だけを求めて苦しんでいるという切実な事情を説明した。
事情を察した秘書は、深い同情と理解を示す。そしてモームが束の中から招待状を一枚抜き取るのを、静かに「見て見ぬふり」をしてくれたのである。
こうして手に入れた「偽りの招待状」を受け取った瞬間、エリオットの顔には生気が戻り、至上の喜びが広がった。彼は即座に、神への先約を理由にした最高にエレガントな「お断り」の手紙を口述筆記させ、その数時間後に安らかに息を引き取る。
一見、プライドを保った大往生のように見えるが、読者の胸に残るのは、「死ぬ間際まで、たった一枚の紙切れに生死を振り回された男」の、あまりにも滑稽で、哀切な姿であった。
「いつまでも主役」という呪いから降りる
エリオットを笑うことは、私たちにはできない。
現代の私たちもまた、形を変えた「招待状」を追い求めて生きているからである。 SNSの通知、組織での肩書、業界でのポジション、あるいは「若い世代から一目置かれている」という自負。それらが少しでも揺らぐと、私たちは「自分はまだ第一線にいるのに」と焦り、承認を求めて必死に泳ぎ続けようとする。
しかし、主役の座は必ず次の世代へと引き継がれていくのが、世の理(ことわり)である。
「いつまでも自分を第一線と思わないほうが気が楽」
この諦念は、決して敗北宣言ではない。むしろ、自分をすり減らす終わりのないレースから、優雅にコースアウトするための「知恵」なのだ。
第一線から一歩退いた場所には、他人の目を気にせず、ただ自分のためだけに淹れるお茶の美味しさがある。誰の評価も気にせず、自分の好きな本を読み、好きな景色を眺める静かな自由がある。
「私はもう、現役の主役じゃないからね」
そう微笑んで肩の力を抜いた瞬間、私たちはエリオットが最期まで手に入れられなかった、本当の「心の平穏」を手にするのかもしれない。
たまには人生の荷物を少しだけおろして、スポットライトの当たらない暗がりの心地よさを、静かに楽しんでみてはいかがだろうか。

