資格ブーム、リスキリング、副業、独立開業。いまや世の中には、「資格を取れば人生が変わる」という物語があふれている。そのなかでも、安定して高い人気を集めている国家資格の一つが「行政書士」である。
行政書士試験には、年齢、学歴、実務経験などの受験資格が設けられていない。誰でも受験でき、合格後に所定の登録を済ませれば、自ら事務所を構え、独立開業を目指すこともできる。法律を学んでキャリアを変えたい人、定年後の仕事を探している人、副業や独立を考えている人にとって、行政書士は魅力的な資格に映る。
「会社に頼らず、自分の看板で仕事をする」「定年に縛られず、専門家として働く」「法律知識を身につけて、人生を立て直す」。行政書士試験は、こうした希望を抱かせるには実に絶妙な位置にある試験である。
しかし、その希望がしばしば受験生を長期戦へと引きずり込む。「あと数点だった」「来年こそは受かる」「ここまで勉強したのだから、やめるほうがもったいない」。そうして一年が過ぎ、二年が過ぎ、気づけば三年、五年、あるいはそれ以上の時間を受験勉強に費やしている。資格を取って人生を変えるはずだったのに、いつの間にか試験そのものに人生を拘束されている。これが、いわゆる「行政書士試験の沼」である。
なぜ行政書士試験は、これほど多くの人を惹きつけるのか。そして、なぜ一度ハマると抜け出しにくくなるのか。今回は、行政書士試験の人気の理由と、その背後にある少々残酷な構造について考えてみたい。
1.行政書士試験は、なぜこれほど人気なのか
行政書士試験の人気は決して偶然ではない。そこには、「誰でも挑戦できる」「難しすぎないように見える」「合格後に人生を変えられそうに見える」という、強力な三つの魅力がある。
誰でも受けられるという圧倒的な入口の広さ
行政書士試験には、学歴や実務経験などの受験資格がない。学生でも、会社員でも、主婦でも、定年退職者でも受験できる。入口には門番がいない。そのため、多くの人が「自分にもできるかもしれない」「法律を学んだ経験はないが、努力すれば何とかなるだろう」「今の人生を変えるきっかけになるかもしれない」と考える。この「自分にも届きそうである」という感覚こそが、行政書士試験の大きな集客力である。
もちろん、誰でも受験できることと、誰でも簡単に合格できることはまったく別の話である。しかし、人は入口が広いと、その先の道も歩きやすいように錯覚する。行政書士試験は、その錯覚を生み出しやすい試験である。
独立開業という甘美な響き
行政書士試験に合格し、所定の登録を済ませれば、自分の事務所を構えることができる。この「独立開業」という言葉は強烈である。上司はいない、定年もない、自分の得意分野で仕事ができる、努力次第で収入を伸ばせる。まるで、資格証を手にした瞬間から、専門家としての未来が開けるかのように聞こえる。
しかし、現実はそこまで親切ではない。資格は仕事を保証しないし、登録証は顧客を連れてこない。試験勉強では、営業も集客も実務も経営も教えてくれない。合格はあくまで入場券である。しかも、その入場券を手にした後に待っているのは、実務能力、営業力、専門性、信用構築という、試験とは別種類の競争である。それでも「独立できる」という言葉は、人を強く惹きつける。資格取得後の現実よりも、資格取得前に描く未来のほうが、たいてい美しいからである。
「六割で合格」という絶妙な設定
行政書士試験では、原則として300点満点中180点以上を取ることが合格の大きな条件となる。つまり、六割である。この数字が実に絶妙である。八割であれば多くの人が最初から諦めるかもしれないし、五割であればもっと簡単そうに見えるかもしれない。六割は、「きちんと勉強すれば届くのではないか」と思わせるにはちょうどよい数字である。「満点を取る必要はない。10問中6問を取ればよい。予備校の講義を聞き、過去問を回せば何とかなるのではないか」と思わせる。
ところが、実際の試験は単純に全問題の六割を取ればよいという構造ではない。法令等科目や基礎知識科目には基準点があり、主要科目である行政法や民法で一定の得点を確保し、さらに記述式の採点も乗り越える必要がある。「六割」という数字は明確でも、合格までの道のりはそれほど単純ではない。
行政書士試験は、遠くから見ると緩やかな坂道に見える。しかし、登り始めると、足場の悪い斜面が延々と続く。その見た目と実態の差が、多くの受験生を引き込むのである。
2.受験者層に起きた「地殻変動」
行政書士試験の難しさを語るとき、多くの人は出題範囲や合格率に目を向ける。しかし、見落とされがちな問題がもう一つある。それは、「同じ試験会場に、どのような受験生が座っているのか」という問題である。行政書士試験には受験資格がない。法律を初めて学ぶ人も、他の法律系資格や公務員試験で何年も鍛えられてきた人も、同じ問題を解く。入口は誰にでも開かれているが、全員が同じスタートラインに立っているわけではない。
法律学習経験者たちの「併願」
かつての行政書士試験では、行政書士になることを主な目的とする、いわゆる専願の受験生が、現在よりも大きな割合を占めていたと考えられる。ところが、平成期以降、法律資格を取り巻く環境は大きく変化した。司法制度改革が進められ、法科大学院制度が始まり、司法試験制度も変わった。法律を体系的に学ぶ人の裾野が広がるにつれ、行政書士試験にも他試験の学習経験者が流れ込むようになった。
法科大学院生や司法試験受験生のなかには、法律学習の到達度を確認するため、あるいは在学中に一つ資格を確保するために受験する人もいる。さらに、試験会場には次のような受験生も存在する。
- 司法試験や旧司法試験の学習経験者
- 司法書士試験の受験生
- 国家公務員試験や地方公務員試験の受験生
- 法学部や法科大学院で法律を体系的に学んできた人
こうした人たちは、行政書士試験のためだけに法律を一から学び始めたわけではない。すでに民法や憲法の基本体系を理解し、条文と判例を往復しながら問題を解く訓練を積んでいる。司法書士受験生であれば民法について試験よりも広く深く学んでおり、公務員受験生であれば憲法・行政法・民法といった重複分野をすでに何度も反復している。司法試験系の経験者であれば、法律要件を整理し、事実関係に当てはめ、紛らわしい選択肢を切る基礎体力が備わっている。
彼らにとって行政書士試験は、必ずしも人生を懸けた本命試験ではなく、腕試し、併願、通過点、あるいは法律学習の成果を形にするための資格にすぎない。しかし、本命ではないから弱いとは限らない。むしろ、別の試験で鍛えられてきた人ほど、行政書士試験では恐ろしく強いことがある。
「六割取ればよい」の背後にいる人たち
行政書士試験は、原則として一定の基準点を超えれば合格できる絶対評価の試験である。したがって、他資格の受験生が何人合格しても、その分だけ行政書士専願者の合格枠が直接奪われるわけではない。制度上、合格者の椅子を受験生同士で奪い合う試験ではない。
しかし、だからといって、周囲の受験生の水準がまったく関係ないわけでもない。予備校の模試、合格体験記、SNS上の自己採点、学習情報。そこで見かける「行政書士受験生」は法律初学者だけではない。行政法で満点に近い点数を取る人、民法の難問を平然と正解する人、短期間の学習で合格点を超える人。その数字を見た初学者は、「行政法はこのくらい取れて当たり前なのか」「民法でこの点数では話にならないのか」「自分も勉強しているのに、なぜ追いつけないのか」と思ってしまう。
しかし、比較している相手は自分と同じ時期に同じ地点から勉強を始めた人ではないかもしれない。片方は初めて六法を開いた受験生であり、もう片方は司法書士試験を数年間勉強してきた受験生である。片方は行政法の条文を覚え始めた受験生であり、もう片方は公務員試験で行政法を何周もしてきた受験生である。片方は法律問題の読み方そのものに苦労している受験生であり、もう片方は法科大学院で長文の判例や法律文書を読み続けてきた受験生である。
この両者を同じ「行政書士試験の受験生」という言葉でくくれば、実力差は見えなくなる。受験資格がないということは、初心者に広く開かれているという意味であると同時に、上位資格の学習経験者にも無条件で開かれているという意味でもある。行政書士試験は、誰でも受けられるからこそ、とんでもなく法律に強い人まで普通に混じってくるのである。
合格者の「中身」は外から見えない
行政書士試験の合格者について、法科大学院生、司法試験経験者、司法書士受験生、公務員試験受験生などがそれぞれどの程度を占めているのか、その詳細な内訳は一般には明らかにされていない。したがって、「合格者の半数が他試験からの併願組である」といった数字を客観的な事実として断定することはできない。
しかし、正確な割合が分からないからといって、法律学習経験者の存在を無視してよいわけでもない。同じ試験会場には、行政書士試験のテキストを開いてからまだ一年も経っていない人がいる一方で、何年も六法や判例集を読み込み、他の難関試験で鍛えられてきた人もいる。同じ問題を解いていても、背負っている学習歴はまるで違う。
にもかかわらず、「行政書士試験は法律初学者が受ける資格である」「周囲も自分と同じくらいの知識であろう」「六割でよいのだから、平均的に勉強すれば届くであろう」と考えてしまう。この認識の甘さが最初の落とし穴となる。
絶対評価なのだから、他の受験生を蹴落とす必要はない。しかし、合格基準を超えるために必要な学習水準は、法律初学者が想像するほど低くない。直接、合格枠を奪われるわけではなくとも、模試や教材、受験指導、合格者像の水準は、こうした経験者の存在によって引き上げられていく。初学者は、見えないところで、すでに鍛え上げられた人たちと同じ基準の問題に向き合っているのである。
「法律職国家資格の登竜門」という幻想
行政書士試験は、受験資格がなくても受験でき、一部では「法律職国家資格の登竜門」と言われていた。なので、結構、法律初学者も受験する。
だが、受験資格がないからといって、試験内容まで初学者に配慮されているわけではないし、法律用語を知らない人にも理解できるように問題文が親切に書かれているわけでもない。
民法の事例問題は、当事者間の法律関係を整理できることを前提に出題される。行政法では、似た制度、条文、判例を正確に区別することが求められる。憲法では、判例の結論だけでなく、判断の枠組みや理由まで問われることがある。つまり、入口では初学者を歓迎していても、出口では初学者扱いをしてくれないのである。
ここを勘違いすると、「半年くらい勉強すれば受かると思っていた」「テキストを10周したのに、なぜ点が取れないのか」「こんなに難しい試験だとは聞いていなかった」という話になる。聞いていなかったのではない。「誰でも受けられる」という説明を、自分の頭の中で「誰でも簡単に受かる」に変換していただけである。
行政書士試験の本当の難しさは、受験資格のなさによって覆い隠されている。門は広い。しかし、その門の向こうにいる受験生多くが初学者とは限らない。むしろ、何年も法律を学び、別の試験で鍛えられた人たちが、何食わぬ顔で同じ問題を解いている。行政書士試験を難しくしているのは、出題範囲の広さだけではない。「周囲も自分と同じ程度であろう」という幻想である。
その幻想が崩れたとき、受験生は初めて気づく。自分が挑んでいるのは、誰でも受けられる試験であって、誰でも簡単に受かる試験ではなかったのだと。この入口と出口の落差もまた、多くの受験生を「こんなはずではなかった」という沼へ引きずり込む、大きな要因なのである。
3.なぜ受験生は「沼」にハマるのか
行政書士試験の怖さは、まったく歯が立たない試験ではないことにある。勉強すれば点数は上がるし、模試でもそれなりに戦えるようになる。本試験でも、合格点の近くまで届くことがある。だからこそ、やめられない。人は、明らかに無理なものは諦められるが、「あと少し」に見えるものは、なかなか諦められないのである。
「あと数点」という最も危険な言葉
行政書士試験には、三問、合計六十点分の記述式問題がある。多くの受験生は択一式だけでは合格点に届かず、記述式の部分点を含めて百八十点を目指すことになる。
そして結果発表の日、174点、176点、178点といった数字を見た受験生は、高い確率でこう思う。「あと一問であった」「記述でもう少し点が入っていれば受かっていた」「来年は確実にいける」と。
しかし、この「あと数点」という認識はかなり危険である。試験結果は数点差であっても、その数点の裏には、知識不足、判断の遅さ、問題文の読み違い、時間配分の失敗、曖昧な理解など、複数の問題が隠れている。単に二点足りなかったのではない。本番で安定して合格点を取るだけの完成度がまだ不足していたのである。
ところが、受験生は点数だけを見て、自分を「ほぼ合格者」であると評価する。この自己評価が次の一年を始めさせる。しかも、すでに講座代、教材費、模試代、休日、家族との時間、趣味を我慢した日々など、多くの時間と費用を使っている。「ここまで積み上げたものを無駄にしたくない」というサンクコスト(埋没費用)が受験生の足首をつかむ。本人は前進しているつもりでも、実際には過去に使った時間に、未来の時間まで支配されているのである。
記述式という希望装置
記述式問題は、多くの受験生にとって希望である。択一式で少し足りなくても記述式で挽回できる、完全正解でなくても部分点が入るかもしれない、自分の答案は意外と評価されるかもしれない。しかし、希望がある場所には期待も生まれ、期待は現実を都合よく解釈させる。「キーワードは書けた」「趣旨は合っている」「少なくとも半分くらいは点が入るであろう」と、自己採点で自分に有利な採点を始めてしまう。
ところが、採点するのは自分ではない。記述式にどれほど期待しても、択一式で安定して合格圏に入っていなければ、結果は最後まで不透明である。それでも記述式は「もしかしたら受かっているかもしれない」という期待を最後まで残す。そして不合格になれば「今年は採点が厳しかった」という説明が生まれる。自分の勉強方法ではなく、採点や問題との相性に原因を求めれば、同じ勉強をもう一年続けることになる。希望は、ときに反省を妨げるのである。
民法は広く、行政法は落せない
行政書士試験では、行政法と民法が得点の中心となる。行政法は、学習成果が比較的得点に結びつきやすい科目であるため、多くの受験指導では「行政法を得点源にせよ」と言われる。しかし、「得点源にする」という言葉は、裏を返せば「落とすな」という意味である。合格者が取る問題を落とせば一気に苦しくなる。行政法はある程度勉強すれば点が取れるからこそ、細かな知識の抜けや勘違いが致命傷となる。
一方、民法は範囲が広く、理解したつもりでも事例問題になると崩れる。条文を知っている、判例も読んだ、過去問も解いた。それでも、当事者が増え、時系列が入り組み、例外規定が絡むと急に正解が見えなくなる。民法は、勉強時間を吸い込むわりに得点が安定しにくい科目である。
その結果、多くの受験生が毎年同じような反省をする。「行政法で取りこぼした」「民法が難しかった」「今年は問題との相性が悪かった」と。しかし、試験は毎年、受験生の得意分野に合わせて出題してくれるわけではない。「相性が悪かった」という言葉を使い続ける限り、いつまでも実力不足は運の悪さに置き換えられるのである。
教材を買うと、勉強した気になる
現在は予備校の講座や市販テキストだけでなく、動画講義、学習アプリ、SNS、ブログ、オンライン模試など、さまざまな教材や情報を手軽に入手できる。学習環境が充実したこと自体は利点であるが、情報が多いからこそ、不安になるたびに新しい教材へ手を出す人もいる。
不合格になると教材が悪かったように思えてきて、翌年、新しい教材を買う。新品のテキストは気分がよく、ページはきれいで構成も新しく、「今年こそ合格できそう」な気持ちになる。しかし、教材を替えたところで覚えるべき条文や判例が劇的に変わるわけではない。問題は教材ではなく、一冊を使い切れなかった自分にあることのほうが多い。
にもかかわらず、人は自分の勉強方法を疑うより、教材を疑うほうが楽である。こうして本棚には教材が増え、頭の中には中途半端な知識が増える。「教材を買う行為」と「実力をつける行為」は別であるが、この二つを混同した瞬間、受験生は「勉強している自分」に満足し始める。これが教材コレクターの正体である。
勉強時間を誇り始めたら危険信号である
「今年は千時間勉強した」「毎朝四時に起きて勉強している」「飲み会も旅行もすべて断った」。こうした努力は、もちろん立派である。しかし、試験が評価するのは努力量ではなく、本番で何点取ったかである。どれほど長く机に向かっても、同じ問題を何度も間違え、復習が曖昧で、知識が整理されていなければ得点には結びつかない。
勉強時間は成果を測る指標ではなく、単なる投入量である。ところが、結果が出ないほど人は投入量を誇るようになる。「これだけやった自分が落ちるはずはない」「努力量では誰にも負けていない」。そう思い始めると、学習方法の欠陥を直視できなくなる。努力は尊いが、試験において方向を間違えた努力は、容赦なく不合格という結果になるのである。
4.「沼」から抜け出すには何が必要か
行政書士試験の沼から抜けるために必要なのは、根性論ではない。さらに勉強時間を増やすことでもない。必要なのは、自分の実力を冷酷なくらい客観視することである。
過去問で何点取れたか、模試で何位であったか、本試験で何点であったか。それだけでは足りない。「なぜ間違えたのか」「どの知識が曖昧であったのか」「正解した問題も本当に理解していたのか(たまたま当たっただけではないのか)」、そこまで検証する必要がある。「あと数点であった」という感想は分析ではない。「行政法の条文知識で五問落とした」「民法の事例問題で当事者関係を整理できなかった」「記述式で要件と効果を混同した」、ここまで具体化して初めて対策となる。
そして、教材は絞るべきである。基本書を一冊、過去問集を一冊、必要であれば記述式対策を一冊。原則としてそれで十分である。足りないのは新しい情報ではなく、すでに見た情報を正確に再現する力であることが多いからである。一度解いて終わりではない。なぜその選択肢が正しいのか、なぜ他の選択肢は誤りなのか、条文や判例のどの部分が問われているのか。そこまで説明できる状態にする必要がある。
合格する人は特別な秘密教材を持っているわけではない。多くの場合、誰もが持っている教材を誰よりも深く使っている。逆に、不合格を繰り返す人は、誰もが持っている教材を誰よりも多く持っている。この違いは大きい。
また、再挑戦を決めるのであれば、前年と同じ勉強を繰り返してはならない。同じ方法で勉強し、同じ弱点を残し、教材だけを新しくしても、結果まで新しくなるとは限らない。再受験に必要なのは意欲ではなく「修正」である。時間を増やす前に方法を変える。教材を増やす前に弱点を特定する。努力を称える前に得点につながっているかを確かめる。それが、沼から抜け出すための現実的な第一歩である。
おわりに
行政書士試験は、魅力のある試験である。誰でも挑戦でき、法律を体系的に学ぶことができ、合格後には独立開業という道も開かれている。
しかし、挑戦しやすいことと、合格しやすいことは違う。独立できることと、食べていけることも違う。あと数点であることと、あと少しで合格できることも、必ずしも同じではない。
行政書士試験の沼は、試験が難しすぎるから生まれるのではない。手が届きそうに見えるから生まれるのである。受験生を沼に沈めるのは、難問だけではない。「来年こそは」という、根拠の薄い期待である。
もちろん、再挑戦そのものが悪いわけではない。問題なのは、勉強方法を変えず、弱点も分析せず、教材だけを替えて、同じ一年を繰り返すことである。
努力を続けることは立派である。しかし、撤退も、方向転換も、戦略変更もまた立派な判断である。
資格試験は、人生を豊かにするための手段にすぎない。その手段が、いつの間にか人生そのものになっていないか。行政書士試験に挑む人ほど、ときどき自分に問いかける必要がある。
自分は、資格を取るために勉強しているのか。それとも、勉強を続けるために資格を追いかけているのか。
その違いに気づけるかどうかが、「沼」から抜け出す人と、沈み続ける人の分かれ目なのである。

