個人経営の飲食店やバーといったコミュニティ空間において、店舗の命運を握っているのは一見客ではなく「常連客」である。売上のベースを支え、閑散期にも暖簾をくぐり、カウンターの止まり木を温めてくれる存在は、店主にとって何物にも代えがたい財産であるはずだ。
しかし、現場で起きる現実は時に残酷な皮肉を孕む。
「常連がいるから店が繁盛する」という美談の裏で、しばしば静かに進行するのが「特定の常連の存在が、他の良質な常連や新規客を駆逐していく」というパラドックスである。
昭和のコンプライアンスの緩さと「クソブタ」の生態
かつて読んだある本の中に、「クソブタ」と陰口を叩かれる強烈な登場人物がいた。
その直球すぎる蔑称は、まさに昭和の空気感を凝縮したような強烈さである。今の時代なら一発でアウトな呼び名だが、当時のフィクションや実話系エッセイでは、そうした身も蓋もないあだ名が平然とまかり通っていた。
その男はある店の紛れもない常連なのだが、店主からも、そして周囲の他の常連客からも徹底して嫌悪されていた。KYで減らず口、頼まれてもいない講釈を大声で垂れ流し、店主との馴れ合いをこれ見よがしに誇示しては周囲を白けさせる。周囲が苦笑いで引いているのを「俺の弁舌にみんな聞き入っている」と盛大に勘違いしているような、典型的な厄介者である。
思えば「昭和のコンプライアンスの緩さと荒々しさ」が色濃く残っていた時代、場末の酒場や喫茶店の片隅には、必ずこの手の手合いが一人は居座っていたものである。当時はそうした不条理や無頼すらも「街の風景」「店の味」として、どこか泥臭い許容力で曖昧に飲み込まれていた側面があった。
静かに去っていく「サイレント・マジョリティ」
だが、時代が変わろうと人間心理の本質は変わらない。厄介なのは、この被害を受ける側の大人の対応である。
成熟した良識ある客は、店の中でわざわざ揉め事を起こさない。不愉快な手合いがくだを巻いていても、その場で怒鳴り散らしたり、店主に直接クレームを入れたりはしないのである。その場は適当に相槌を打ち、酒を飲み干し、勘定を済ませて静かに扉を開ける。
そして――二度と戻ってはこない。
「あそこは味も雰囲気も好きだが、行くと高確率で『アイツ』がいるから足が遠のいた」
この一言が囁かれ始めたとき、店の死へのカウントダウンは始まっている。店主が「最近、あの人たちを見かけないな」と呑気に構えている間に、店を本当に愛し、適度な距離感でスマートに金を落としてくれていた上客たちから順番に、音もなく姿を消していくのである。
店主の「事なかれ主義」が招く自滅
残るのは、ますます増長した「問題の常連」と、それに巻き込まれるのを嫌がらない同類の悪客、そして閑古鳥が鳴くフロアだけである。
店主側に悪意はないのかもしれない。「昔からの常連だから」「売上ゼロの日に来てくれた恩があるから」「角を立ててトラブルにしたくないから」と、出禁や厳重注意をためらい、曖昧な笑みでその場を取り繕ってしまう。
だが、厳しいビジネスの視点で見れば、それは優しさではなく単なるガバナンスの放棄であり、他の客に対する不誠実に他ならない。たった一人の厄介者を甘やかして野放しにしたツケは、店のブランド価値の毀損と、客層の著しい劣化という形で、必ず店主自身に跳ね返ってくるのである。
どんなに居心地の良い隠れ家であっても、人が集まる以上、そこには秩序と品位の維持が不可欠である。
「誰を迎え入れるか」と同じくらい、「誰を客として断るか」という冷徹な選別眼を持てるかどうか。看板を長く守り続けられる店と、常連に食い潰されて消えていく店の境界線は、まさにその覚悟の差にある。

