以前、ある人が「今の時代、ネットでなんでも学べるようになったのだから、もはや学校や大学などは必要ない」といった趣旨の発言をしたことがあった。
情報化が進み、指先ひとつで世界中の講義動画や専門知識にアクセスできる現代において、一見するとこの主張はもっともらしく響くかもしれない。しかし、私にはどうしてもこの考えに賛同することができない。ここには、教育に対する根本的な見誤りがあるように思えてならないからだ。
そもそも子どもにとって、学校という場は単に知識を頭へ詰め込む「知育の場」にとどまらない。異なる家庭環境や価値観を持つ生身の他者と出会い、ときにぶつかり、ときに譲り合いながら、協調性や忍耐力、他者への思い遣りを培っていく「人格形成の場」でもある。画面越しの快適な空間で自分に都合のよい情報だけを選び取っていては、決して得られない泥臭い人間的成熟が、学校の教室や校庭には息づいている。この側面を軽視し、単なる効率の良し悪しだけで学校の要不要を論じるのは、あまりに知育偏重、あるいは功利主義的すぎるのではないだろうか。
さらに、この議論が大学や「学問」の領域にまで及ぶとき、その浅薄さは一層深刻なものとなる。ネットで手に入るものの多くは、すでに誰かが体系化・言語化した「既成の知識」や「ノウハウ」の断片にすぎない。しかし、本来の学問とは、答えを検索することとは根本から次元が異なる。
民法学者・立命館大学総長であり、戦前・戦後の激動期に学問の自由と平和を説き続けた末川博先生は、かつてその著書の中で「学問」について次のように記された。
『学問というのは、昔から真理の探究をするものだといわれておるのであります。つまり、真実をきわめ、真実を語るということが学問の本来の使命であると、一応いえるのでありますが、そういう学問に対しては、昔から弾圧や圧迫が加えられているのです。真実を知られたり真実を伝えられたり語られたりしては、自分たちの地位や利益がおびやかされると考える人たちが権力をもっているからです。すなわち真実を探られたり真実をみんなに伝えたりしては困る人や階層が政治的な、あるいは昔なら宗教的な、今日なら経済的な支配権力をもっていて、それが学問を抑圧することになるのである。そのために学問に対して制約を加え、弾圧したという例は、歴史上枚挙にいとまがないほどたくさんあります。』(末川博『末川博随筆集』栗田出版会、1975年、253~254頁)
末川先生が峻烈に突いている通り、学問の本質とは「真実をきわめ、真実を語る」ことである。それは自明とされている常識を疑い、ときに時代の空気や支配的な権力に抗いながら真理に肉薄していく、厳格な批判精神と知的誠実さを伴う営みだ。
だからこそ歴史上、学問には圧迫が加えられてきたのであり、その権力からの干渉を防ぎ、真実を追究する共同体を守るために「学問の自由」や「大学の自治」という制度的防波堤が命がけで築かれてきた。もし学びがネット空間や市場原理(経済的支配権力)のアルゴリズムだけに委ねられれば、利益や権力にとって不都合な真実はたやすく不可視化され、耳障りの良い情報ばかりが消費されてしまうだろう。
「ネットがあれば学校はいらない」という言説は、学びを単なる「手軽な情報摂取」や「実利的なスキル獲得」へと矮小化してしまっている。
生身の人間と向き合い心を耕すこと、そして圧迫に屈せず真実を語り継ぐ知的共同体を守ること――。末川先生の言葉は、利便性と即効性に目を奪われがちな現代の私たちに、学校と学問が本来担うべき尊い使命を強く思い起こさせてくれる。

