映画:ミッキー・ローク主演映画「ナインハーフ」(1986年)に見る、危険な恋の駆け引き〜打ち上げ花火のごとく短い結末〜

コラム

1980年代のニューヨーク。退廃的な光と影が交差するソーホーの街を舞台に、ひと組の男女が織りなした9週間半の密室劇――それがエイドリアン・ライン監督の『ナインハーフ』である。

ウォール街の冷徹なエリート、ジョン(ミッキー・ローク)と、アートギャラリーに勤めるエリザベス(キム・ベイシンガー)。ふたりの出会いから始まる関係は、大人の恋愛という甘美なオブラートに包まれながらも、その実態は「男の理不尽なわがままがどこまで通用するか」を冷徹に試す心理ゲームそのものであった。

高級スカーフというプレゼントで距離を縮め、金の時計を渡して自慰を強要し、男装させて夜の街へと連れ出す。現代の倫理観で切り取れば、ただの支配欲に塗れたモラハラと奇行の連続に過ぎない。しかし、当時のミッキー・ロークが放っていた色気は、そうした歪な関係性すらも「抗えない大人のアムール」へと錯覚させる絶対的な説得力を持っていた。少し掠れた甘い囁き、オーバーサイズのコートを羽織った気だるげな立ち姿、そして影のある微笑み。理屈では「関わってはならない」と知りながら、底なし沼へと引きずり込まれていくエリザベスの心境に、観客もまた共犯者として巻き込まれていく。

だが、現実の生活や社会的属性を完全に遮断した「濃縮還元1000パーセント」の熱狂は、長くは続かない。ベルナルド・ベルトルッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』がそうであったように、互いの素性を消し去り本能だけで繋がろうとする関係は、急接近ゆえにあまりにも早く胃もたれを起こす。日常を排除した密室の戯れは、まるで夏の夜空に弾け飛ぶ打ち上げ花火のように、強烈な閃光を放った瞬間からカウントダウンが始まっているのだ。

関係の破綻は鮮やかだった。精神の限界を迎えたエリザベスが荷物をまとめ、現実へと歩き出すその瞬間、完璧な支配者であったはずのジョンは慌てて自分の身の上を語り始める。散々ゲームを仕掛けておきながら、去られる段になって露呈する手遅れな情けなさ。しかし、その「自業自得の敗北」ですら惨めにならず、極上の哀愁へと昇華してしまうのが全盛期ミッキー・ロークの反則的な美学であった。

閉ざされたドアの向こう、彼女が戻ることを祈りながら心の中で「50」を数える男の背中。あまりに濃密で、あまりに短かった9週間半の宴は、煙のように消え去る男の未練をニューヨークの冷たい空気に残したまま、幕を下ろすのである。

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