世間一般の文学的イメージにおいて、イギリスの冷徹なコスモポリタンたるサマセット・モームと、自らの「業」を私小説の炎で焼き尽くした孤高の作家・車谷長吉の二人が同列に語られることはまずない。
一方は医師免許を持ち、洗練された筆致で人間の欺瞞を解剖した世界的文豪。もう一方は名門・慶應義塾大学文学部でフランス象徴派や古典を深く修めながら、世間的なレールから外れ、長い漂泊と屈辱の日々を経て文壇の頂点に登りつめた文士。
文体も生きた時代も対極に見える両者だが、その創作を根底から駆動させたエネルギーの源泉を探ると、ひとつの強烈な交差点に行き着く。 それは、凄まじい純度を持った「怨念」――すなわち「なにくそ!」という執念深い反骨精神である。
両者には、誰もが認める高い知性と教養があった。己の頭脳と観察力に対する絶対的な自信を持ちながら、人生の前半生において浴びせられたのは、理不尽な侮蔑と挫折であった。
モームは幼少期に両親を亡くして叔父叔母に育てられ、寄宿学校で吃音や小柄な体躯を容赦なく嘲笑され、当時の英国社会では致命的な弱みとなる性的マイノリティとしての孤独を抱え続けた。 車谷長吉は、高い自意識と明晰な知性を抱えながら職を転々とし、料理屋の住み込みなど過酷な環境で頭を下げ続ける日々のなかで、世間からの冷淡な視線と自らの鬱屈を骨の髄まで噛みしめた。
単なる負け犬であれば、境遇を恨んで自暴自棄に終わる。 挫折を知らないエリートであれば、無菌室のサクセスストーリーしか紡げない。
しかし、彼らは違った。 拭い去れないコンプレックスと、高い知性が正面衝突したとき、その凄まじい摩擦熱は「絶対に忘れてなるものか」という冷たく研ぎ澄まされたエネルギーへと昇華されたのである。
「お前たちが見下すこの男は、実はお前らの俗物根性をすべて見通している」
理不尽な境遇から見上げた世間の偽善も、社交界の仮面の裏に潜む残酷さも、彼らは高い頭脳というメスで一寸の狂いもなく解剖し、鋭利なインクに変えて原稿用紙に叩きつけた。
芸術性の高い純文学とは、安全地帯の優等生が書く道徳の教科書ではない。 プライドを一度へし折られた表現者が、鋭利な知性と「なにくそ!」という気迫だけを頼りに世界を睨み返す――その切実な精神の軌跡こそが、時代を超えて読み手の皮膚を切り裂く本物の文学を生むのである。

