人の話を聞いていて、「この人、いろいろな経験をしているはずなのに、なぜか話が面白くないな」と感じることがある。
その理由の一つが、自分の弱みを全く出さないことである。
成功した。
評価された。
こんな実績をつくった。
こんなすごい人と会った。
こんな美味しいものを食べた。
次はこんなことをする。
それ自体は悪いことではない。
しかし、そればかりが延々と続くと、聞いている側は疲れてくる。
なぜなら、そこには「谷」がないからである。
人生を「山あり谷あり」と表現する。
面白い話も同じである。
「こんなことに挑戦した」
「ところが大失敗した」
「もうダメだと思った」
「そこで、こんな人に助けてもらった」
「自分の考え方が間違っていたことに気づいた」
「それから、こう変えた」
だから最後の成功が生きてくるのである。
ところが、自分の弱みを見せたくない人の話では、この「谷」がごっそり抜け落ちる。
文章で言えば、「起承転結」の「転」がない。
いつも、
「起承結」
なのである。
何かを始めた。
順調に進んだ。
成功した。
おしまい。
これでは、結果報告にはなっても、なかなか物語にはならない。
むしろ人間が最も面白く見えるのは、「転」の部分ではないだろうか。
失敗した話。
勘違いしていた話。
調子に乗って痛い目に遭った話。
人から叱られた話。
怖くなって逃げた話。
どうしていいか分からず、人に頭を下げた話。
そういう話には、その人の「人間臭さ」がある。
そして不思議なことに、自分の弱みを語れる人ほど、必ずしも弱くは見えない。
むしろ、
「この人、自分の失敗を笑って話せるんだ」
と思わせる人のほうが、精神的な余裕を感じさせることがある。
反対に、自分を常に「成功している人」「すごい人」「正しい人」としてしか描けないと、聞き手との間に距離が生まれる。
聞き手が参加できる余白がないのである。
「すごいですね」
と言うしかない。
それでは会話も広がらない。
私は、人の魅力というものは、「山」の高さだけでは決まらないと考えている。
どんな「谷」を通ってきたのか。
そして、その谷で何を考え、どう立ち上がったのか。
そこにこそ、その人にしか語れない物語がある。
だから、格好悪かった自分も、ときには話していい。
失敗した自分も、笑い話にしていい。
分からなかった自分も、迷った自分も、隠す必要はない。
「山」だけを並べても、人の心はなかなか動かない。
「谷」があるから「山」が高く見える。
そして、
「転」があるから「結」が生きる。
いつも「起承結」の人より、ときには自分を格好悪く描ける「起承転結」の人。
私は、そんな人の話のほうが、ずっと面白いと思うのである。

