令和の知育偏重気味のこどもへの教育への危惧〜横の繋がりのドライさ〜

コラム

1人1台配備されたタブレット端末、そして平日の放課後や週末を埋め尽くす習い事や学習塾。令和の教育風景を眺めていると、知識のインプットとスキルの前倒しを急ぐあまり、何か根本的なものが置き去りにされているような違和感を拭えない。

かつて昭和の放課後には、もっと泥臭く、体温の通った「横の繋がり」があった。

空き地の三角ベースで段ボールをベース代わりに走り回り、家の前で日が暮れて球が見えなくなるまでキャッチボールを交わす。ファミコンが登場する前の時代、子どもたちが夢中になったのは人生ゲームや野球盤といったボードゲームだった。畳の上に膝を突き合わせ、サイコロやルーレットを回し、紙幣のやり取りに一喜一憂する。パチンコ玉のような鉄球をバネで弾き、「消える魔球」の判定をめぐって顔を真っ赤にして口論する。そこには大人も審判もおらず、ぶつかり合いながら落としどころを見つけ出す、生々しい人間関係の知恵が宿っていた。

そして何より、お互いの家を巡り合う文化があった。「〇〇君、遊ぼう!」と玄関先で大声を張り上げ、土足を脱いで居間へと上がり込む。お互いの家を行き来するということは、「自分たちの生活を丸ごとさらけ出す」ということに他ならなかった。

玄関を開けた瞬間に鼻をくすぐる夕飯の支度の匂い、擦り切れた畳、壁のシミ、柱に刻まれた背比べの傷。厳しそうな父親がステテコ姿で昼寝をしていたり、母親が「これ食べな」と大皿で焼きそばを出してくれたりする。裕福であろうとなかろうと、格好をつけようにも生活の裏側まで筒抜けだった。だからこそ、みっともない部分も含めて受け入れ合い、損得を超えた無防備な信頼関係が自然と育まれていったのだ。

ひるがえって、現在の風景はどうだろうか。

防犯やプライバシー、共働きによる不在宅への配慮、あるいは保護者同士の過剰な気遣いから、子どもが友人を自宅に招くハードルは極めて高くなった。放課後は画面越しのオンライン通話でゲームをつなぎ、塾や習い事のタイムスケジュールに追われて街を移動する。親もまた、他人に生活の雑味を見られることを極端に恐れ、清潔で整えられた「無難な関係性」の外に出ようとしない。

知育アプリで効率よく語彙を増やし、一面ではスキルとして評価されるかもしれない。しかし、他者と生身でぶつかり合い、理不尽に耐え、みっともない素顔を晒し合って築く「心のシェルター」のような横の繋がりが、いまの子どもたちの足元には決定的に不足しているのではないか。

スマートでドライ、傷つかない代わりに温もりもない人間関係のなかで、子どもたちは本当に健やかに根を張ることができるのだろうか。知識やスキルの足し算ばかりに目を奪われる時代だからこそ、かつて私たちが路地裏や畳の上で育んだ、あの不器用で温かい「さらけ出す勇気」の価値を、いま一度問い直したい。

タイトルとURLをコピーしました